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30/08/2013

いまさらですがNAVERまとめ的なベトナムでおしんといえばお手伝いさん。

普通の日本人が「おしん」といえばこういう理解だと思う。

wikipediaから引用

”スリランカ、インドネシア、フィリピン、台湾、香港、ベトナム、アフガニスタン、シンガポール、エジプト、イランなど世界66か国や地域で放送され、苦難に遭いつつも決してあきらめず、明治、大正、昭和を生きた主人公・おしんの姿が、日本だけでなく世界各国で人々の共感を呼び、「おしんドローム」という言葉を生み出した。2011年現在、「世界で最もヒットした日本のテレビドラマ」とされ今もなおファンが多く根強い人気がある。”
wikipedia おしん(日本語サイト)

ところが、現代ベトナムでおしんと言えば「お手伝いさん」「家事労働をする人」の呼び名です。

ベトナム語のwikipediaから引用(強調は筆者)

”được Sanrio làm thành phim anime.
Năm 1994, phim được chiếu tại Việt Nam và đã tạo nên một cơn sốt[1]. Từ đó, ô-sin trở thành từ tiếng Việt có nghĩa "người giúp việc trong gia đình".”
wikipedia Oshin(ベトナム語サイト)

強調部分超訳「1994年のヒット以来、ベトナム語のおしんは家庭の中で仕事を助ける人の意味となる」 。

2007年の朝日新聞のコラム。
おしんは健在、海を越えてもけなげです!

”橋田壽賀子原作のNHK連続ドラマ「おしん」が、ベトナムのお茶の間を賑わしたのは、今から10年以上前。それ以来ベトナムでは「OSHIN」はお手伝いさんを指す普通名詞となるまでに出世した。身を粉にしてせっせと働くおしんが、ベトナムの人の心を捉えたのも不思議ではない。しかし、なぜこの言葉が独り立ちしたかといえば、実際にベトナムのウチにはOSHIN=お手伝いさんが溢れているからなのだ。”

WAKAちゃんのブログ記事から引用。

”日本からブログを見てくださっている方のためにベトナム豆知識。 ベトナムでは家政婦さんのことをOSHIN(おしん)と呼びます。 多分日本のTVの「おしん」から来ているのだと思います。世界中で放送されていますからねw

いわゆるメイドさんで、大きな家だと住み込みで掃除洗濯炊事とバリバリ働いています。私の家にも元はリッチな方が住んでいたようで、「オシンの部屋」と呼ばれる離れの小さな部屋が3階にあります。(私の家は住み込みではないので事務所として使っていますが)最近は、住み込みで1日中拘束される「オシンワーク」よりも工場や飲食店などのサービス業で働くほうが「割が良い」みたいで若い人がオシンとして働くことは少なくなってきているらしいです。”

「ベトナムだより」その2 ベトナムと日本の意外な関係?!

”現在ではこの「おしん」という言葉が、外国企業などに勤める高額所得者の家で雇われる家政婦のことを意味するようになった。ベトナムでは夫婦共働きが当たり前だから、家事はすべて家政婦に任せ、夫婦ともどもモーレツに働く。「今度『おしん』を雇って、子どもの面倒をみてもらっているのだけれど、『おしん』が子どもをいじめないか心配でね」なんていうふうに使う。
加えて、「今日は僕が『おしん』をするんだ」といって、男どもが家事をするというときにも使っている。”


ある日のベトナム人との会話

”今、仕事してないんだ?
 おしんしてるのか?”


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植村直己は就職に失敗したから海外に旅立ったのか?

昨日から、考えている。

植村直己は就職に失敗したから海外に旅立ったのか?

ここ、はっきりさせたい。

前エントリーでも触れたが、著作の”青春を山に賭けて (文春文庫 う 1-1)”では就職活動の話がでてこない。

「ヨーロッパアルプスに憧れて日本を飛び出した」というストレートなストーリーである。

ペン森通信というブログで、ジャーナリストの瀬下氏は

就職の失敗を糧とした植村直己  もし植村が順調に就職していたら、世界的な冒険家にはなっていなかった。就職に失敗したことをかれは忘れてはいなかったようで、ぼくが毎日新聞からTBSブリタニカに転じたさい「安定した職からよく転職しましたね。あなたこそ冒険家ですよ」と目を丸くして信じられない表情をしたのだ。就職できなかったかれは、窓ふきの仕事をして、新天地を求めてアメリカへ渡る。そこで実入りのいいアルバイトをしてお金をためる。”

とある。

 

植村直己に冒険家といわれたぼく
 明大農学部を卒業した植村は就職に失敗する。だが、就職しても出世にはなんの関心もなく、退社して山登りや冒険に向かったにちがいない。
ヨーロッパアルプスへの憧れ断ちがたく、まず資金が貯まりそうなアメリカ立ち寄ることを決め、移民船「あるぜんちな丸」でロスへ渡る。不法就労で強制送還されそうになるが、ようやくフランスへ着く。その経緯すら冒険だが、かれは「冒険家」という肩書きが好きではなかった。ぼくが毎日新聞を辞めると告げると「あなたはなんという冒険家なんだろう」とあきれていた。”

とも書いている。
就職してもどうせ辞めただろう。ということなのだが。

瀬下氏の退職時に、
「あなたはなんという冒険家なんだろう」
「安定した職からよく転職しましたね。あなたこそ冒険家ですよ」
と言ったというエピソードは、”就職できた成功者”対する、植村直己のコンプレックスがちらっと顔をだしたように私には思える。

で。

”コンプレックス 植村直己”でぐぐってみたら、
こういうブログに行き当たる。

閑居放談 コンプレックスこそパワーの源 ”植村直己にみる行動原理

<略>
彼は明治大学を卒業しても、就職口がなかった。周りの同級生は、みんな就職していくのに自分だけは置いて行かれていたのです。決して会社勤めが嫌いというのではなく、さりとて積極的でもない、すなわち、社会に適応できない自分というのが、重くのしかかっていたのです。高度成長期の折、山岳部の仲間はみんな企業戦士となって意気揚々と頑張っている。たまらず彼は日本を飛び出して単身アメリカに渡ったのです。ほとんど逃避行のような状況だったのです。”

ブログの管理者は無如(むにょ)とあり、植村直己との関係は不明。
本文では「彼のスタートを知る私」とある。
逃避行とは、これは、これで極端な気もするのだが、いま風にいうなら自分探し???
ま。著作の”青春を山に賭けて”はだいぶ、都合よく脚色してあるには違いないんだろう。
(この本は面白いからいいんだけどね。)

とにかく、それほど積極的でなかったにしても、とにかく就職に失敗したということだろう。

植村直己は何故、就職に失敗したのか?

Webナショナルジオグラフィック 植村直己 夢の軌跡という特集記事の中にこういう文章があった。

第1章 始まりと終わり 前編 ”用意していた小部屋に彼を講じ入れ、話を聞きはじめたとたんに、これは大変な男に取材することになったと思った。話の内容が大変というのではない。話の内容にまで行きつくのがひと通りのことではなかったのである。

 彼は一言、二言話すたびに、顔を赤らめ、大汗をかいた。比喩としていっているのではない。上気した顔面に、汗が噴き出し、頬や顎にそれが流れ落ちた。言葉がうまく出ないのである。一言いってつっかえ、つっかえたことで顔を赤らめ、顔を赤らめながら、できるだけ誠実かつ正確に自分の体験を伝えようとする。そういうことなのだろうとすぐに推測がついたが、しかし私がそう思ったところでどうにもなるものではなかった。”


ああつ!就職が決まらなかった原因はこれだ!!!面接が苦手だったんだ!!!

そして、この連載に衝撃の事実が。

第8章 故郷 前編 ”64年の冬、大学卒業を間近にひかえて、植村は実家に帰ってきた。そこで家族の前で「卒業後、外国へ行きたい」という話を切りだした。両親、とくに母の梅さんは頭からこれに反対した。

 すると植村は夜なのに家を飛び出し、円山川にかかる上郷橋の欄干につかまって、長いことシクシク泣いていた、というのである。ただし、家族の間には異説がある。「あれは(直己が)我を張って、泣くマネをしていたのだ」というもの。こっちのほうがおもしろいかもしれない。

 しかし、反対された植村にしてみれば、事態は深刻だった。修氏によれば、「ふだんはおとなしくていい子」のはずの末っ子は、夜中まで外で泣いた後、家に帰ってフトンの中にもぐりこみ、3日間の断食をやった。ハンガー・ストライキとは、ずいぶん古典的な手段を使ったものである。

 両親はネを上げて、判断を修氏にゆだねた。植村より10歳年上のこの兄は末弟を内心可愛がっていたようである。「弟があれだけ思いこんでいるんだから、やっぱり聞いてやらにゃあなるまい」と考えて、片道の船賃を工面してやることになった。”

なんやて!!
泣き落としで、兄ちゃんにお金を工面してもらったのかい!!
バイトしたんじゃないのか!!

昨日、私が書いたエントリーと矛盾するだろ!

今からウィキペディアを書き換えに行きますわ!

* 関連著作についてまとまっているサイトは
ライオンズ伝 (超個人的 人名辞典) 植村直己

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29/08/2013

シニアの人が若い頃は金持ちでもなければ海外に行けなかったのか?と、考えていたら、つまらない結論になってしまったけど、なんか昔のほうが良かった気がして羨ましくなった。

Twitterでこういうのを読んだ。
「若い頃から海外への憧れはあったけど、当時は円が安くて外貨が高かったから金持ちでもなければ海外に行けなかった。だから今の人達は若いうちから留学したり海外で仕事ができて羨ましいと。」
こう言ったシニアの人がいるらしい。
何歳なんでしょうかね。

「金がなかったから海外に行けなかった」というロジックは、まあ、言い訳だろう。

◇シニアの人が若かった頃。60年代から70年代。金持ちでなければ海外に行けなかったか?確認してみたい。

ベストセラーになった小田実の「何でも見てやろう (講談社文庫 お 3-5)が出たのは1961年である。
この本はバックパッカー本としては古典中の古典ですね。

小田実は留学の帰路、帰りの航空券と200USD持って貧乏旅行に繰り出すのです。
まだ、1USD=360円の時代です。

これを読んで海外に行きたくなった若者は多いと思う。

当時の状況を、
ウィキベディアの海外旅行の項目から引用する。

”一般の市民が職業上の理由や会社の都合ではなく、単なる観光旅行として自由に外国へ旅行できるようになったのは翌1964年(昭和39年)4月1日以降であり年1回500ドルまでの外貨の持出しが許された。さらに1966年(昭和41年)1月1日以降はそれまでの「1人年間1回限り」という回数制限も撤廃され1回500ドル以内であれば自由に海外旅行ができることとなり[2]、これ以降、次第に物見遊山[3]の海外旅行が広がり始めた。”

海外旅行自由化は1964年からなのね。

その自由化されたばかりの1964年。
バイトしたお金をためて、海外に渡った若者がいる。
冒険家の植村直己。1941年生まれ。

渡航費10万円。所持金は110ドル。約4万円。1USD=360円。
*1965年の大卒初任給は24102円とある。
大学初任給の推移より


”1964年5月2日大学卒業後就職試験に失敗、ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと考えたが資金が足りないため、まず生活水準が高いアメリカで資金を貯めてそれからヨーロッパに行こうと考え、周囲の反対を押し切ってとび職のアルバイトで貯めた金を元手に横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、ロサンゼルスへ向かった。」”(ウィキペディア)

この話が書かれてるのは
青春を山に賭けて (文春文庫 う 1-1)です。


そして、深夜特急1―香港・マカオ― (新潮文庫)
を書いた沢木耕太郎。

1947年生まれ。
深夜特急での沢木耕太郎は26歳だったから、旅行は70年代前半ということになる。
所持金は1900ドル。(トラベラーズチェック1500+現金400)
1USD=300円くらいで57万円くらいかな。

*1975年の大卒初任給は91272円だ。
大学初任給の推移より。


もう一人、あげておく。
60年代後半に海外放浪していたのは、ダモ鈴木
1950年生まれ。
ここで比較にダモ鈴木がでてくるのは私がCANのファンだから。それだけです
ヒッピームーブメントの中で他にもいそうなんだけど調べてません。

ダモ鈴木。下記に引用したウィキペディアにはアメリカへ密航とある。
もちろん渡航時の所持金は不明だ。

”高校中退後の1960年代後半、単身日本を飛び出し、単身アメリカへ密航。以後、ヒッピーとして世界各地を単独放浪。アメリカ25州を経て東南アジア諸国を回り、ヨーロッパへと渡り、ギターの弾き語りをしながら放浪の旅を続けた。”(ウィキペディア)

youtube.com Can - Vitamin C

彼のサイト→http://www.damosuzuki.com/

2013年現在なら。

ダモ鈴木。63歳。
沢木耕太郎。65歳。
上村直己。生きていたら72歳。

でね。
話は冒頭に戻って。

あらためて
「金がなかったから海外にいけなかった」というロジックは、言い訳なんじゃない?と繰り返しておく。
当時だって、がんばってバイトすればとりあえず海外に行けたわけだからね。
ではシニアの人が

Q 何故、行けなかったのか?

A  日本で就職していたから。

だと思う。

つまらない結論になってしまったよ。

植村直己。*就職に失敗して海外放浪へ。
沢木耕太郎。就職を蹴って海外放浪へ。
ダモ鈴木。高校中退。新宿でヒッピー生活後に海外放浪へ。
だからね。

*自伝的な本「青春を山に賭けて」には就職試験に失敗したという記述がない。ウィキペディアによる。
植村直己が就職試験に失敗したというソースを誰かご存知のかたは教えてください。


そして、最後に思い出したので追加します。
ロバート・ハリス(1948年生まれ)も1971年に東南アジア放浪なんだよね~。

Planet Green Podcastで旅に関するPODCAST放送が聴けます。PODCASTを聴き漁ってた時に彼を知ったので、旅行本的な流れで抜け落ちてました。

未読だけど エグザイルス (講談社プラスアルファ文庫)

こうやって挙げていくと
今より、シニアの人が若かった頃、70年代頃のほうが、日本は自由な時代だった気がしてきたよ。

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